|
一人の青年がヒースロー空港のプライベートラウンジでバーをさ迷い酒を飲みたい誘惑に駆られそれに負けまいとしながらほぼ1時間近くも滑走路を見つめていた。数分ごとに腕時計を見、定期的にポケットをまさぐり一枚の紙切れのタイプで打たれた一組の数字のを見つめた。彼はその老人に会ったことは一度もなかったが、老人のほうは必要とする事実は思うままに何でも知っていた。ポール・ブーハーという男は自ら愚か者になりはしない男なのだ。
スピーカーから鐘の音が流れた。
リーンゴーン・・・・
「シカゴから、ソーン社のチャーター機が到着しました。」
同じ鐘の音が流れた。
「まもなく、乗客のブーハー様がターミナルラウンジに到着されます」
青年は顔を平手で打ち、自分のネクタイをチェックした。
ソーン社の会長であり、大株主であるブーハーは、西洋諸国で−−それは世界一を意味するのだが−−最重要とされる有力な実業家だった。
この男がその洞察力で約30年前、1つの巨大な産業会社を今や地球上で最大の多国籍複合会社に変えたのだった。ブーハーは直感で世界的ショッピングリストの中で食品が最重要項目であると見抜き、ソーン社を第3世界に供給する多大な肥料と大豆の製造業社に変えたのだった。
青年は若いOLや自分の部下に何度も何度もかれこれ30年前につくられたブーハーの正当性の疑わしい声明文を言い聞かせていた。
「われわれの有益なる未来は飢餓にあるのだ」と。
ブーハーは伝説の男であり、ちょっとしたヒーローだったのだ。
青年がソーン社のジェット機を探しながら外を眺めていた時、ドアが開いて背が高く背筋がしゃんとして白いカーリーヘアの厳しい顔立ちの男ブーハーがラウンジに入ってきた。
「ブーハー様」青年が言った。「私はハリスです。ようこそロンドンへ!」
ツアーガイドのように言うつもりはなかったのが、ついこの言葉が口をついて出てしまった。
「ありがとう、ハリス」ブーハーは言った。「私に会えてよかったな」
ハリスは身つくろいして自分が赤面しないように願った。
「お車はご自由にお使い下さい」
「当然だ」ブーハーはそう言って、ハリスをご機嫌取りのちっぽけな奴だと思った。
M4に沿って東へ向かっているリムジンの中で、ハリスはカクテルキャビネットをパタンと開けた。が、ブーハーは顔を横に振った。
「リビアから何か言葉は?」
「ございません」ハリスは言った。
ブーハーはうなずき、「よし、便宜を3週間延ばして利率を1.5上げろ」
ハリスはまばたきした。
「抗議されるかもしれませんよ」
「したきゃすればいいんだ。オフィスに着いたら起こしてくれ」
ブーハーは目を閉じた。ハリスはブーハーの気を損ねたんじゃないかとドギマギした。
ソーン株式会社のイギリス本社はテムズ川の南の川岸にソーン社のロゴである「T」の字をかたどって建てられていた。シカゴにある本社ビルの小さいバージョンで、会長は最上階のスイートルームから、川の向こう側に街とイギリス銀行を観ることが出来た。左を向くと国会議事堂のながめがよかった。どちらかの場所に電話をかける時、直接その方向を見つめるのが彼の癖だった。
ブーハーはオフィスに着くやいなやこの2日間に入ってきた全てのテレックスをたずね、それから1時間邪魔をしないように命じた。
その間に彼のスタッフのメンバーが隣のスウィートルームに集まり始めた。彼らは各々新顔に会釈したり挨拶したりしながら静かに談話していた。その時間までにはスウィートルームはソーン社のスタッフでいっぱいになっていた。
ブーハーの秘書が自分の腕時計をチェックし、ノックをして中を覗き込んだ。
「お誕生日おめでとうございます」秘書は言った。
ブーハーは見上げて微笑み、秘書の向こうの他の者たちをちらりと見た。
「ありがとう」と言ってブーハーは立ち上がり、彼らのほうへ近づいて行った。
彼らは決められた順番でブーハーに近寄ってきた。最初は3人の副会長が「おめでとう、ポール」と申し出、それから会社の取締役のそばに各部長が続いた。彼らの顔はただぼんやりとブーハーに知られており、彼らはブーハーのことを「先生」と呼んでいた。
全員がブーハーと握手をすると、その一群は若い使い走りの少年がこちらに来れるよう片側へ移動した。少年は「T」をかたどって焼かれローソクが立っているケーキを運んできた。少年は静かにブーハーの机にケーキを置いてその場を離れた。ブーハーは微笑んで少年に礼を言い、ローソクをぷっと吹いた。火が消えるまでに3回かかり、その度に彼は机に対して上半身を後ろにそらした。一群は喝采を送ると、ウエイターが手押し車を押しながら戸口に現れた。
「シャンペンをお少しどうですか?」と秘書がたずねた。
「そうだな」とブーハーは答えた。
ウエイターがコルクをポンと抜き始めた。ブーハーがグラスを取るとスタッフの祝辞が始まった。
「こういうのもなんだが、ポール、君は少しも年相応に見えないよ」
「私が老いぼれだっていうのか」
「いや、そんなつもりじゃ・・・」
「先生、今晩はお祝いをなさるんでしょう?」
「しない」
「・・・ブーハー様、お休みをとられてはどうです?」
「この機会にか・・・」
「・・・先生、今年も昨年同様の成功をお祈りいたします」
「私は昨年以上に成功してもらいたいね」
「あ、ああ、はい、も、もちろんです」
彼らを見ながらブーハーは、結局自分の後任は誰にしようかと考えていた。彼らのうちの一人が明らかに選りすぐった者であるとも思われないし、ここにもシカゴにもいなかった。彼はけして代表に委任したことがなく、これを弱点として認めていた。彼に必要だったのは「40歳のポール・ブーハー」だったのだ。
「えーと、偉大なる70歳を祝して、乾杯!」
ブーハーは振り返ってハリスを見た。ハリスの顔はシャンペンで赤らんでいた。ハリスはブーハーにグラスを上げた。
ブーハーは顔をしかめた。
「20を3つ足す10(注:聖書の言葉「人生70年」)に乾杯!」ハリスはニヤニヤ笑った。
ブーハーは身震いしてあとずさった。すぐ手近の秘書が現れてたくさんの歯を見せて笑いながら腕でハリスを捕まえた。
「あ、ぼ、僕何か言いましたか?」ハリスは困惑したような顔をしながら言った。
「こいつをつまみだせ」ブーハーは静かに言った。
秘書はハリスをドアのほうへ導き、他の者たちは順々にあとずさった。
「私が何をしたってんです?!」ハリスの声が静寂を通して抗議した。ブーハーは自分の席に行き、どしんと座って目を閉じた。目を開いた時には、残っているのは秘書だけだった。
「申し訳ございません。ブーハー様」
ブーハーは頭を振った。
「もういい」
「何かさしあげましょうか?」
「あと30年を」 ブーハーは言った。
その女性秘書は微笑し、部屋を出てドアを閉めながら、ポール・ブーハーもやはりしまいには死ぬのだなと考えていた。
ブーハーは絶え間ない眠りの中でピクピク痙攣したり、
ぶつぶつつぶやいたりしていた。女が肘掛け椅子の上から伸び上がって彼を見下ろしていた。女がブーハーの胸の上の模様をなぞると、彼の右手がバタバタと動いた。女はその手をつかんで手のひらをくすぐった。ブーハーは顔をしかめ、うなるように何か理解できないことを言った。
女は微笑んでブーハーの薬指を取り、ふり動かした。その指は赤ん坊が母親にしっかりつかまるように女の指をつかんで閉じた。ブーハーの指の上のアザのザラザラした皮膚を感じることができた。そのアザは数字で、一方から見れば3つの「9」であり、他方から見れば3つの「6」で、その先がクローバーの葉の柄に集まっているように見えた。それが、女のイマジネーションの中で焼き付くように思われた。
ブーハーはまるで泳いでいるかのように自由なほうの腕を激しく打ち、身をねじった。唇が動いた。「何を言ってるの?」女はささやき、より近くに上体を曲げた。
「20を3つと10・・・」かすかな呟きだ。
「ツ・・・・・・・ッ!!」女がブーハーの手をきつくつかみ、ブーハーが女の手をしっかり握ったのでそのアザが女を焦がした。女は叫び声を上げ、手を自由にしようとしたが離れなかった。
「ポール!」女は悲鳴を上げた。
「人生70年・・・」ブーハーはきしみ声で言った。
「最終戦争(アーマゲドン)の年に70歳・・・」
女は自分の手をねじとって自由にし、ブーハーから飛びのいた。彼の唇は動き続けたがもはやなんの音もしなかった。女は自分の手をちらっと見た。彼のアザが彼女の指を焼き印のように焦がしているのが分かった。しばらくの間女はじっと動かずにそれを見つめたいた。そして自分の唇につけそれを舐め、小さな「6」を舌の先でなぞり、それから振り返ってブーハーの頬にキスをし、ありがとうとささやいて深く満足した眠りに落ちたのだった。
第2章へ
|