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ジエームス・リチャードがブレナンと修道士の話を新聞社の取締役の一人に話したのはそれから3日たってのことだった。彼らはリチャードが「心の発進剤」と名づけた朝の飲み物を飲みながら、その話はばかげているといって笑った。しかし、その短剣の話は何か脳の奥をかき乱すものがあった。彼はオフィスに戻ると一人の女性レポーターを呼び出し、指を曲げてあとについて自分の部屋に来るように合図した。
キャロル・ヤットは22才でフリートストリート紙にはまだ入って2ヶ月だったがすでに有名になり始めていた。彼女は生まれつき美人で、小さくすらっとしていて繊細な顔つきをしており、首が長くすこぶるおおきな茶色い目をしていたが、左目が少し真ん中からずれていたのでそれがいつでも当惑しているようで傷つきやすそうに見えた。スリムな足は彼女を男性からのやらしい言い寄りと女性からのあばずれという批判を引き付けるのに十分なほど美しかった。しかし、たとえ彼女がどんなあばずれであろうともスタッフにとって貴重で有能だと認めさせざるを得ないのだった。
傷つきやすそうなその表情は上司たちに鋭い頭脳と意欲的な性質を隠していることを示し、彼女は将来有望とされていたが、一つまずかったのは学生時代バーでのニックネームが「バンビ」だったと言ってしまったことだった。このあだ名が離れなくなってしまったのだ。
「こんにちは。ビル」
キャロルは微笑みながらこう言ってドアを閉めた。
「夏だね」
取締役は言った。
「そうですね」
「ゆったりした休暇のためには特ダネのストックが必要だな」
キャロルはやっとのことで笑顔を保った。
「ちょうどトリッキー・ディッキーと話をしていたんだよ。彼が私に思い出させたんだよ、あの話を・・・」
「めずらしい出だしですこと」
彼女は言った。
「15〜20年前のことだ」
彼は続けた。
「いかがわしい宗教の短剣が絡んだ一連の事件があった。我々の友人たちはスコットランドヤードで挫折した。それを調べてくれないか?たしかはりつけ殺人とかなんとか呼んでいたと思ったが、『未解決犯罪の焦点』で使おうと思うんだ」
「それはもうやらないって言いませんでした?」
キャロルは言った。反抗ではなく、単なる穏やかな抗議だった。
彼は彼女を無視して椅子の上で記事の書類をぐるぐる探し回り、彼女は部屋を追い出された。
資料室に行く途中、彼女は大声で文句を言った。
「血なまぐさい切り抜き作業なんて、これじゃ新聞まで血なまぐさくなっちゃうじゃない」
キャロルはその部分はたぶん決して印刷された紙面で見ることはないと悟っていた。
「ビルは自分が怠けるために忙しいふりしてるだけなんだわ」
しかし、彼女はもうそれ以上突っ込んで考えるのはやめた。
そしてキャロルは30分かけて切り抜きの束を集めて自分の机に持ってきた。その切り抜きのいくつかはとても古くて彼女の手の中で崩れた。
他の物は電動タイプ以前の物で手がインクで汚れたので、キャロルは顔をしかめた。年を経た殺人事件を語るとても古いインクが人の指を汚すのが少し異様に思えたのだが、それからしばらくして彼女は微笑えんだ。誰か何年か前に彼女のためにその作業をしてしまっていた。それは2ページの見開きの見出しだった。
「悲劇の家系、呪われたソーン家」
彼女は束にキリストがついている短剣を見つめ、にやりとしてペンをとった。記事のほとんどが彼女の目的とは見当違いで、その記者はソーン家に執着していた。しかし、それを読むとキャロルはそれに興味が湧いてきた。
| 昨日、32才で一番若い駐在大使であったダミアン・ソーンの早すぎた死により、彼がソーン一族の悲劇の最終章となった。何不自由ないと思われる当主でありながら、彼の家族は早々にまた時として奇怪な死を遂げる運命にあった。 ダミアン・ソーンはベッドの中で心臓麻痺で亡くなったが、それ自体奇妙なことである。 |
キャロルはソーンの写真とそれに続く小さい写真をチラリと見た。各々の写真にはキャプションがあった。
ロバート・ソーン
(ダミアンの父) |
ロンドンの教会で射殺され、謎の殺人者は依然として現れていない。 |
キャサリーン・ソーン
(ダミアンの母) |
病院の窓から落ちて死亡。ペレフォードの自宅で流産するという事故の後のことだった。 |
リチャード&アン・ソーン
(ダミアンの叔父と叔母) |
ソーン博物館が火事で崩れた後、跡形もなく消えた。また、彼のいとこのマークは13才で脳出血のため死亡している。 |
記事はここでくぎられており、一行の見出しがついていた。
「ペレフォードの荘厳なる屋敷の怪奇」
下の写真はダミアンの若い乳母が窓から首をつった田舎の邸宅だ。彼女の後任は後にロバート・ソーンが亡くなった夜、ぞっとするような姿で殺されているのが発見された。そして、このペレフォードはキャサリーン・ソーンが結果的に死に導かれ転落にあったところだと記者は読者に思い出させた。
他のセクションは一族以外の死が報じられていた。ソーン工業の取締役のチーフがシカゴのソーン邸でのアイスホッケーの試合の最中に溺死した。それはダミアンの13才の誕生日の祝いの最中で、氷が割れて落ちたのだった。
もう一人のソーン社取締役パサリアンはダミアンと彼の学友が工場を見学している間に実験室で死亡している。女性レポーターの一人もリチャード・ソーンのインタビューの後、奇怪な情況で死亡していた。
本能的にキャロル・ヤットはこれを読んで十字をきった。使い走りの少年2人からくすくすと笑いが起こったが、彼女は彼らに注意を払わなかった。
ソーン博物館の館長は列車置き場で事故死。その同じ日の夕刻、シカゴのソーン博物館は全焼していた。死亡リストは果てしないように思えた。キャロルが目をこすると、インクのついた指で顔が汚れた。それでも彼女は読み続けた。
アンドリュー・ドイルはダミアンの前任者だったが、ロンドンのアメリカ大使館の自分のオフィスで自殺。動機は未だ不明・・・・。
身元不明の男がダミアンがインタビューされていた時テレビスタジオで焼死・・・。
2人の男(これも身元不明)がコーン・ウォールで、ダミアンが参加したハンティングの場所で死亡していたのが発見された。1本の短剣がその男性の手の中で発見され、もう1本がもう一人の身体の近くに・・・。
キャロルはこれをメモした。唯一彼女の取材に関連した死だった。この記者はその事故についての結論は何も示さず、ただビールスのように彼らとその周りを動いているソーン家をとりまく絶え間ない悲劇を指摘していただけであった。
キャロルはその切り抜きをコピーし、それからスコットランドヤードの新聞社に電話した。30分もかからぬうちに彼女はフェザーズで飲み物を注文していた。
若い新聞社員は喜んで手伝ってくれた。キャロル・ヤットのような美人とビールを飲むチャンスはめったにあるものではない。普段の彼は毎日を自分たちがフィリップ・マーロウェだと思い込んでる辛口な犯罪レポーター
のやつらと一緒に過ごしていたからだ。彼はその写真をちらりと見てウィンクした。
「いやな感じの武器だね」
「博物館にあるかしら?」
「ああ、そのうちの5本はね。ファイルをチェックしたんだ」
キャロルは瞬きした。考えている以上に短剣があるらしい。
数分後、彼らはスコットランドヤードのブラックミュージアムとして知られる部屋のガラスケースの側に立っていた。短剣の各々にラベルが付けられ、5人のキリストの顔がガラス越しに2人を見上げていた。
「あとの3本はどこかの礼拝堂で別の身元不明死体といっしょに発見されたんだ」
と若者がファイルをチラっと見ながら言った。
「またコーンウォールだ。ほんと、なぜみんなここにあるのかを調査するように仕向けられているようだね」
そのファイル見せていいただける?」
彼はファイルをキャロルに手渡した。
「一本は死体のポケットに、他の2本はその背中に突き刺さっていた・・・・ねぇ、これからちょっとランチをどう?」
「悪いけど・・・」彼女はやさしく笑いながら言った。
「戻らないと・・・」
オフィスに戻って彼女はジェームズ・リチャードの部屋のドアを押し開けた。
「彼、いるかしら?」
リチャードの秘書は威張っていてリチャードをガードしており、嫉妬深く彼女をじろりと睨んだ。
「どなた?」
「単なるレポーターよ。彼はどこ?」
「エルビノよ。でも彼は今・・・」
「ありがとう」」
キャロルはそう言ってドアをバタンと閉めた。
キャロルはワインバーで会話に夢中のリチャードを見つけた。そこは男性向けの店で、女性は厳しい規則の管理の下で入る事が許されていた。女性はバーに立ったり飲み物をオーダーすることを禁止されていた。キャロルはランチタイムドランカーで混雑している中を人を押しのけて進み、リチャードに笑いかけ、彼の挨拶を期待した。
リチャードは彼女をチラリと見た。
「キャロル・ヤットです」
彼女は即座に言った。
「ニュース室から来ました。一度お会いしましたよね。ちょっと早急にお話したい事があるんですけど」
リチャードはその場を辞退して彼女と後ろに下がった。
「おじゃましてすいません。でも特ダネを取材してるのです。あなたが私に正しい方向を示して下さるのではないかと思いまして」
「僕にできることなら」
「ビルが私に言ったんです。あなたはローマでフィリップ・ブレナンとお食事なさったって」
「それはプライベートだよ」
リチャードは答えた。キャロルは記事のコピーを彼に手渡した。
「彼が話していた短剣はそれですか?」
リチャードはコピーをじっと見た。
「そうだろう。束がこんな形だったというようなことを言ってたよ。でもお嬢さん、彼にうるさくつきまとわないでくれよ。やめて欲しいんだ、君に・・・」
しかし、彼女は簡単に礼を言って身をひるがえした。
それから、キャロルはイライラしながらすばやく5本の短剣の記事を書き、それを手に持ち電話を取った。アメリカ大使館の報道担当官は、もし大使に会いたければ正規の手続きを通さなければならない。それには質問事項のリストと会見要求書を書かねばだめだと言った。
「じゃ、そうしますわ」
キャロルは会社のメモ用紙に手を伸ばしながら元気に答えた。30分足らずで彼女の手紙を持った速達ライダーがグロスベノア・スクエアへ向かっていた。キャロルは椅子のせもたれに寄りかかってほくそえんだ。そう、私は外交の礼儀を破っている。でもそれがどうしたっていうのよ。もし上司が相談しないで行動したと文句を言っても、リチャードが気分を害したって、未熟者でした、若気の至りで・・・と笑って弁明すればいいわ。もし、ローマの短剣と未解決殺人事件との間になんらかの関係があることが立証できるならそんなのお安いご用よ。これこそ本当の取材だわ。昔の切り抜きを蒸し返す仕事なんかじゃなく、これこそが・・・・。
「プライベートディナーですって?」
キャロルはつぶやいた。
「くそくらえよ」
次の日の朝キャロルは早く起きた。今日は休みで、これからまさにことを起こそうとしているところだった。彼女はイギリスのペレフォードにある壮麗な家々を見上げた。この国で一番大きな別荘の一つがあの記者がこう断言していた屋敷だ。17世紀の住居で、400エーカーの庭園と63の部屋、2つの翼を広げたような棟がある。1930年代に建てられた別館は風雅にデザインされていたが、他所の外観を損ねてはいない。マスのいる小川、テニスコート、野菜園・・・
1時間かかってキャロルはその場所を見つけた。近づくにつれてトランシルバニアの山の頂上にある幽霊の出る塔という自分の心の中のイメージと比較し始めた。自分をおびえさせようとしてみたが駄目だった。夏の太陽が輝いてひばりが鳴いていた。私の想像力ってたいしたことないのね、と彼女は独り言を言い、大きな門を車で通り過ぎながらクスクス、笑っていた。
キャロルはブレーキをかけて引き返しその門をながめた。行き先の道のりを見つめそれからクラッチをはずして道に沿ってその小さい車をそろそろと進めた。一本道を1マイルほど行き、それから1マイルと半はずっと上り坂だった。それから彼女は路肩に車を置いて、敷地内をさまよった。彼女の下手に屋敷があった。キャロルはそれを見つめ,短剣について書くのにかかる時間は、ちょうどこんな家を買って1ヶ月のローンを払うお金を貯めるのにかかる年数とおなじくらいかもしれないと思った。壁は10フィートの高さだったが、レンガにひび割れがあった。彼女は壁を見上げた。しばらくの間、周囲を見回って家に帰り、大使とのインタビューを待ってなにが起こったのか知るべきだと考えた。しかし、キャロルはこの場の奇妙さにうずうずした。
見ても損はない。もし見つかっても、まあ、必ず見つかるだろうが、その時は公園の壁だと思った、とまた知らないふりして笑ってごまかそう。
キャロルはレンガの割れ目に足を差込み、自分の身体を押し上げた。
アラームシステムが鳴ったので少年はびっくりしてモニターに手をのばし、ボタンを押してスクリーン上の壁にまたがって座っている若い女を見た。まるまる1分間ほどその若い女は動かずに座っていた。まるで何かを決心しているようだった。それからズルズル滑って草の上にキチンと降りた。少年は首の後ろで髪が逆立つのを感じ、犬が動く音が聞えた。犬は窓越しに毛を逆立て、喉の奥でうなり、鼻面を引いて歯を見せながらじっと見た。
少年が犬の肩にふれると、犬は少年の顔を見上げ指令を待ったが少年は犬の毛皮に指を押し入れ続けた。犬の顔がまるでしかめっ面のようにしわが寄った。それから犬は振り向き、よだれをカーペットにたらして喘ぎながらスクリーンを見上げた。少年は前方に手をのばし、TVをクローズアップに調整してその女が芝生を横切り、まるで田舎の徒歩旅行中のように目的を持って歩いているのを熱心に見つめていた。
彼はその大きな目を見て、空気を嗅ぎ、指とつまさき曲がり、犬への握りがきつくなり、犬が叫び声をあげたのにそれでも握り続けた。スクリーン上のイメージを除いたすべてに気が付かず、女は今や所有地の外側の境界を横切っていた。女の顔はハッキリしなかった。女が植え込みをかき分けて進んでいたからだ。すると、枝がポキンと折れて女の顔に突き刺さった。女が立ち止まった。少年は女の目の中に涙を見た。彼女が手を顔に置くとほおをさすった。彼は奇妙な感情を感じた。涙をぬぐって女をなぐさめたくなったのだった。犬は少年に不平をいうようにうなり、女がまた前へすすむと少年は心を奪われて見つめながら椅子に戻って座った。少年はフォーカスをいじくった。女はかかとを上げ植え込みを通ってダンサーのように高くステップを踏んでゆっくりと進んでいた。
まもなく女は屋敷に200ヤード以内に入るだろう。少年は飛ぶように立ち上がり、部屋を走り出た。廊下にそって階段を下り、犬は彼の足跡をクンクン嗅いでいた。少年はサイドドアまで走り、ドアを押し開けた。少年は芝生へ走り進みながら、中庭に出た。もし、女の前に姿を現したら、女はここを出ることを許されないと知りながら・・・。
キャロルは植え込みを出て、塗装を施した芝生に出た。屋敷は壮麗で引っ越した様子はないように思われた。キャロルは月夜のパーティを想像できた。男性は燕尾服を女性は舞踏会のドレスを着て、若い男性が若い女性のスリッパからシャンペンをすする、それがちっともばかげていない、そんな感じのところに思えた。そして再び彼女はクスクス笑った。自分のイマジネーションで気分がよくなっていった。彼女は顔の枝が当たった所に手をふれ、目をこすった。そして、目をあけると、木の側に立っている1人の若者が見えた。キャロルは息を呑んだ。彼女の手が女学生のように口元で震えた。
その少年は本当に今まで見た中で一番美しい人間だった。
「こ・・んにち・・は・・・」
キャロルはとぎれとぎれにキーキー声の挨拶を申し出た。
少年はうなずいた。彼は彼女を黙って見ていた。キャロルは笑って少年の方へ歩いた。少年は木から離れて、彼女のいる小道に足を踏み入れた。
「君は・・・誰?」
彼は尋ねた。彼女はアクセントをおかず、「中央大西洋」とかつて呼ばれた低い声で言った。
「私はキャロル・・・。あなたは・・・?」
「ここで何をしてる?」
「ただ公園を見まわっているだけよ」
キャロルはにっこりした。しかし、なんの反応もなかった。いつも男性は積極的に荒々しい性的衝動をかくしてなんとかして彼女に言い寄ってくるのに、少年はばたきもせずにただ見つめただけだった。
「ここは公園じゃない」
「ええ?!私てっきり・・・」
「ここは私有地だ」
「まあ・・・・ホント?!」
キャロルは侵入に対するおしかりを待った。足を地面につけしっかり立ち覚悟した。しかし、少年はまったく威圧することなく、彼女の気分をよくさせた。
「もしよかったら家を見る?」
「あ、ありがとう・・・ぜ、ぜひ・・・」
この招待はあまりに思いがけなかったので、キャロルは口ごもった。それから少年の後について芝生を横切った。ドアに着くと彼女はまた立ち止まった。建物の横からまわってきた犬の目を見たからだ。犬は毛を逆立ててうなったが少年が犬を見るとうなり声が止まった。
キャロルは震えた。
「私・・・見たことないわ・・・こんな・・・」
「ロットワイラー種さ」少年はキャロルの話を遮って言った。
「かつては家畜を追うのに使われたんだ。そして狩りもする。足が速くて50ヤード以上出るけどすぐ飽きる。でももし飽きないうちに捕まえたら雄鹿だって・・・」
少年は微笑んだがキャロルは顔を背けた。
「私・・・血なまぐさいスポーツは嫌いよ・・・」
「そう?・・・そうだろうね」
キャロルは少年のあとについて中に入った。犬が2人のあとをだまってペタペタついてきた。キャロルは犬のにおいで鼻にしわを寄せた。
彼女は玄関の広間の中央で立ち止まってまわりを眺めた。彼女は口を開け回廊とバスケットからぶらさがる植物を見上げた。あそこからキャサリーン・ソーンが落ちたのだ。死ななかったのが不思議なくらいだとタイルを見つめて彼女は思った。
再びキャロルは少年の鋭い視線を感じた。
「そこら辺を見てて」
少年はそう言ってキャロルと犬をいっしょに残し、階段を駆け上がった。
「どうもありがとう・・・」
キャロルは少しうろたえた。それからふりかえって犬を見た。
犬は少年と同じ死んだような視線で彼女を見つめていた。
そうして、彼女は考えた。ここで全てが起こったのだ。とても幽霊屋敷という感じではなかった。キャロルは玄関ホールを横切り客間の方へ行き、中を見た。それから振り向いて再び階段をちらっと見上げてあの少年はどこへ行ったのだろうと思った。キャロルは少年を魅了し、彼がここに住んでいるのかどうか、そして何をして生計をたてているのかを尋ね、この家の歴史について彼が知っていることを聞き出す決心をした。もうすでに家の中に入ったのだから、今は楽しもう。
キャロルは片足でくるりと回った。犬は居なくなっていて彼女は独りだけだった。
少年は礼拝堂の中で自分の父の目を見つめながら動かずに立っていた。彼の唇は無言の祈りでぴくぴく動いた。彼は手を伸ばし手を組んだ。
「父よ、我の不信心を許したまえ」
彼はやわらかに言った。彼は後ろに下がって振り向きキリストの偶像をにらんだ。
「そうだ」彼は嘲笑った。「おまえは薄汚いインチキを続けている。おまえは僕の前におしゃれしてはばたくやわらくふくらんだ誘惑者を送り込んだ。ちょうど、僕の父に母を送り込んだように・・・。父をいつわりの感情で誘惑したように僕を誘惑したんだ。おまえは信心深い憐れみいつわりの情欲で僕の力を弱らせようとしている・・・」
少年は十字架の後ろに回り込んで両手を短剣の束におき、木の中で刃がきしむまで握った。
「そしてこれが結果だっ!!」
少年は怒鳴って短剣を抜き取った。しばらくの間彼はそれを見つめ、それからダミアンの死体の方にもどり、その周りを歩き、指を背骨の下に滑らせた。5番目の脊椎の下に深い傷があった。少年は震える指でそれにやさしく触れ再び短剣を見た。
「誘惑者が殺し屋に変わったのだ」
少年はつぶやいた。
「これが、父が後ろを振り向いた時起こったことだ」
しばらくの間彼はだまって立っていた。それから偶像にとびつき、こぶしでその顔をなぐり、もう一度ぶつぶつ言いながら、やっとのことで背骨に短剣を打ち込んだ。
「おまえは誘惑に頼ることを考えている」
少年は回り込んで像の顔を見つめた。
「おまえは征服したと考えているが、おまえの言う40の昼と40の夜の事は考えていない。おまえは僕にこの生き物を送った。僕の運命から顔を背けさせ、僕をまっすぐで狭い道、努力と大志の袋小路へ案内するためだ」
少年は首を振った。
「しかし、おまえは失敗した。おまえはいつも失敗するのだ」
彼は像の顔に片手を広げた。
「おまえは処女から生まれ、僕は・・・」
少年はセンテンスが未完成だと感じ顔を背け
「ナザレよ、汝は立ち去れ・・・」
とささやいた。
キャロルはもう十分なほど屋敷を見てしまっていた。太陽は沈んでしまい、夕暮れの寒さを感じた。鼻孔がピクピクし、腐臭に顔をしかめた。犬の臭いはどこにでもあったが、少年のいる様子はどこにもなかった。彼女はゾクゾクするのをかんじた。薄いブラウスとサマースカートではもはや十分ではなかった。突然彼女はこの家を出て車にもどってここから去りたくなった。
キャロルはドアを開け、車道へと踏み出しよろめいた。彼女の靴の片方のヒールが折れたのだ。彼女は靴を脱ぎ捨てゆっくりと車道を歩いた。尖った砂利が彼女をたじろがせた。風が起こり、彼女が芝生につくと、誰かに見つめられているような気がした。犬が見ているのだと思って振り向いたが、そこには何もなかった。キャロルは芝生をひたひたと横切って植え込みに入ると走り始めた。まだあの犬の悪臭がまとわりついているような気がした。そして彼女の心に思い出がちらっと蘇った。18才の誕生日にシャンパンを飲みすぎて気持ち悪くなり、雨の中歩いて帰らなくちゃならなかった。吐いたもののにおいでムカムカしたことを・・・。今はそれと同じだった。彼女が走って家から離れれば、離れるほど臭いがきつくなった。
キャロルは植え込みをかき分けた。薮の中でよろめきなが2回木の根っこにつまづき、もう少しで倒れる所だった。夏の夕暮れは急で暗くなっていた。彼女はもはや方角がわからなかった。走りながら、枝が彼女の顔を激しく打ち、目をさした。悪夢の中で彼女はいつも追いかけられていて、震えて目が覚めるのだった。それが、いやだった。特に狩りをしているという夢が、とってもいやでだからチェイスの連続がある映画はみることができなかった。
キャロルは立ち止まった。前方の植え込みがまばらだった。むこうには雑草が生えて、壁と車があるはずだ。彼女はその木々の方へ走っていった。さらに枝を押しのけて、そしてまた立ち止まった。そこには別の植え込みがあった。円形に走っていたに違いないと考えながらキャロルは困惑して顔をしかめ、方向オンチ自分をののしった。
キャロルは再び震え、両腕を胸にまきつけしっかりとつかみ、広い場所へと低木をめくらめっぽう走った。進み続ければあの壁に着くに違いない。当たり前のことだわ。敷地の広さは?400エーカー?おそかれ早かれ壁を見つけてペレフォードをあとにできるはずよ・・・。
犬は静かにキャロルに忍び寄っていた。50ヤードの間隔を保ち、彼女が止まれば止まり、それからまたあとをつける。エネルギーをそのままにゆっくりと動いた。キャロルが広い所に着く時までに植え込みの中では30ヤードほどの所まで追い迫った。犬は再び立ち止まり臭いを嗅ぎ、女が雑草地を走るのを見つめていた。それから前へ躍り出た。大きな胸を張り駆け足で走りだんだんとキャロルに迫っていった。
音はまったくせず、臭いだけがきつくなっていったのでキャロルは犬がすぐそばにくるまで何も聞こえなかった。彼女が振り向くと同時に犬は飛び掛かり、大きな頭でぶつかり、彼女の腰のあたりを突き、キャロルを地面に叩き付けた。叫び声をあげる暇もなかった。立ち上がろうとしたが犬がのっかってその顎が彼女の足首に噛み付いて閉じた。犬は頭を荒々しく振り、顎を貝のように閉じ、歯は骨と軟骨を引き裂いた。キャロルはただ叫び声をあげるだけだった。ちらっと犬はキャロルを見て闇の中にのしのしと歩いていき、彼女から数ヤード離れた所に横たわり見つめていた・・・。
叫び声は喉で枯れ、顔を草に押し付け指で地面を掻き何かをにぎってキャロルは苦しみと闘った。アキレス腱を噛まれ、ひざの後ろにふくらはぎが持ち上がってアキレス腱がぴんと張っているのがわかった。痛みが彼女に吐き気を催させた。吐き気と入れ替わって苦しさが増した。キャロルはよい方の足でなんとか進もうとしたが動けなかった。
ゆっくりと出血するほど下唇を噛んで痛みで痛みと闘いながらキャロルはゆっくりと前に這って進んだ。壁まで行って助けてと叫んだらきっと誰かが見つけてくれる・・・。
1時間かかって10ヤード進んだ。風下から少年と犬がいっしょにキャロルを見ていた。さらに一時間彼女は助けを求め、それからじっと草の上に横たわってすすり泣いた。
まもなくしてすすり泣きがやんだ。少年が四つんばいで彼女の方へやってきたのだ。少年が近づくとキャロルはまた動いた。頭を2インチほど持ち上げ、後ろを見ようとした。少年は止まった。キャロルが完全に動かなくなる前にすでに夜が明け、それからは少年が近づいた。
キャロルがいつもみる悪夢は腐肉を食う動物、山犬やハイエナ、コンドルそしてかつて見た映画の男たちで、とらえた者が逃げられないようにひざの腱を引き裂くものだった。彼女は目を開け地面を見つめ、乾いた唾液の斑点を見つめた。それは彼女がたらしたものだった。指は土を引っ掻いたために皮がむけヒリヒリ痛んだが、足は少なくとも今は麻痺していた。そして、何者かがいた。キャロルが頭を上げると再度痛みが貫いた。振り向いて肩越しにその身体の目を覗き込んだ。少年は裸足で這って来ていた。キャロルは笑いかけて話そうとしたが声が出せず、これはたぶん全て悪夢の一部なんだと思った。少年の目は黄色みを帯びて細いように思え、まるであの犬のように息が臭かった。少年がキャロルにのしかかったので、彼女は少年が自分に何をしているのか知ろうとしてすすり泣いた。少年の歯がするどくキャロルの首のうしろをまるで何か探すようにやさしく噛んだのを感じた。キャロルは叫ぼうとして口を開けた。最後に彼女が聞いたのは少年の顎が彼女の首の神経の上で閉じたのと同時に起こった少年の満足げなうなり声だった。
・・・・そして・・・・何もなくなった・・・・・・・。
第1部第6章へ
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